プログラムノート/ 広野和子

ハイドン:アンダンテと変奏曲 ヘ短調 Hob.ⅩⅦ/6

 ハイドンが書いた最も美しい変奏曲とも言えるこの曲は、1793年、61歳の作品で、モーツァルトの高弟のひとり、バルバラ・フォン・プロイエルに献呈された。
 曲はヘ短調とヘ長調の2つのテーマを持つ二重変奏曲となっている。短調が持つ、嘆きや苦悩,諦めの性格と、長調の光の世界の対話。この組み合わせが2度変奏され、最後に長大なコーダを持つ。特に和声感覚が微妙かつ魅力的で、ロマン的色彩を控えめに漂わせ、洗練された晩年の作品となっている。メランコリーで深い情念をたたえるコーダから、彼の音楽面での良き理解者であり同じ年に亡くなった、マリアンネ・フォン・ゲンツィンガーへのオマージュとも推測されている。

リスト:ハンガリー狂詩曲 第11番 イ短調

 リストはハンガリーで過ごした少年時代からジプシー音楽に強く惹かれていた。若くして鍵盤の王者としてその名声を博した彼はそのほとんどを外国で過ごすが、ハンガリーへの愛国心を持ち続け、その民族的精神と情熱を20曲ほどのハンガリー狂詩曲に込めている。1853年に出版された第11番、規模は大きくないが、幻想的で独特な魅力を持っている。民族楽器ツィンバロンを模した音で始まり、ハンガリージプシーの踊りチャルダーシュの形式で書かれ、憂愁で緩やかな“ラッサン”、急速な“フリスカ”の2部からなる。 

   

リスト:聖ドロテア

 311年、カッパドキアのカエサレアで処刑された殉教者で、カトリック教会と正教会の聖人である。彼女が処刑される前、果物と天上からのバラの香りに満たされたことから、ドロテアは園芸の守護聖人として知られている。1877年、晩年のリストが宗教心を込めて描くこの小品には、彼女の優しさが彷彿と感じられる。

 

リスト:2つの伝説

 リストの後半生は挫折や悲しみに満ちていた。陰謀によるヴァイマール宮廷楽長の辞職、第2の伴侶カロリーネ・フォン・ザイン=ヴィッツゲンシュタイン伯爵夫人との結婚式をその前日に国際的な政治圧力によってつぶされた絶望。同時期に愛娘と愛息子を亡くす。これらの深い悲しみを経て、彼は1863年に修道院に入り、2年後には下級聖職者になる。それ以降、宗教色の濃い作品を作曲し続ける。
 「2つの伝説」は、1863年、リストの人生で最も暗く辛い時期に作曲された。リストは、時代も場所も異なる2人の聖人フランチェスコの伝説を、単なる奇跡の物語として描くのではなく、彼の信仰心を通してそれらが持つメッセージを作品に託していると考えられる。

1.小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ
1181年にイタリアのアッシジに生まれたこの聖フランチェスコは、フランシスコ修道会の創設者で、<平和の祈り>でも有名である。
この聖人の生涯の逸話や奇跡を著した本『アッシジの聖フランチェスコの小さな花々』の第16章の内容による。ジョットを始め多くの画家もこのエピソードを題材にしている。
フランチェスコは鳥たちに、彼らが生きる上で多くの賜物を与えてくれている神への感謝を説いている。鳥たちは、その言葉に聞き入り、至福に満たされ、最後は十字架を表す東西南北の方向へ神の言葉を伝えるために飛び立っていく。
鳥の鳴き声を表すトレモロやアルペジオと、単旋律での聖人の言葉のやり取りをリストはうまく表現している。

2.波を渡るパオラの聖フランチェスコ
パオラの聖フランチェスコは1416年、イタリアのパオラで生まれた。リストは、自身が所有していたドイツ宗教派の画家シュタインレの線描画にインスピレーションを得て作曲した。
フランチェスコは荒れ狂うメッシーナ海峡を前に、自分のマントを脱いで波の上に広げ、その上に立ち、左手に燃える石炭を持ち、右手を斜め上にあげながら海を渡る。雲間には、彼のモットーである至高の言葉<カリタス(愛徳)>の文字が光っている。常に動く波の音型で、激しい海の様が表現され、その上を確信に満ちた足取りで渡るフランチェスコの姿に、信じることの強さを感じる。

ドビュッシー:前奏曲集 第1集

 19世紀末のフランスでは、全盛を極めたドイツロマン主義に反動し、新しい芸術運動が興っていた。文学や美術界からの影響を受け、ドビュッシーも彼独特の音楽表現を模索してゆく。
これまでの音楽が持っていた、長調と短調の対比、伝統的な和声、形式やリズムなどに囚われない、自由で大胆な発想で色彩感あふれる独特の響きを追求し、音楽の可能性を大きく広げた。
彼は12曲からなる前奏曲を2集書いている。彼の音楽観が最も充実した形で作曲された作品と言える。全24曲のセットは、J.S.バッハやショパンの前奏曲のフォームに倣っている。ただそこには調の?しばり’はない。
第1集は、1909年12月から1910年2月にかけて作曲された。「光と色彩の作曲家」ともいわれるドビュッシーはこの曲集で、自然の中にある事象、太陽・風・香り・空気などを、自由にイマジネーション豊かに表現している。また、文学からの印象、色々な国の舞曲やスタイルも取り入れられ、個々の曲が独自の性格と雰囲気を持った魅力的な曲集となっている。
 各曲のタイトルは、冒頭でなく曲の最後に遠慮がちに書かれている。ドビュッシーは、演奏するにも聴くにも特定のイメージを強いるのでなく、各人の自由な感性と想像力を喚起したかったのではないかともいわれている。

 1.「デルフィの舞姫たち」
 古代ギリシアの芸術の神アポロを祭った神殿で、巫女たちがゆったりと厳かに踊っている様子。ルーブル美術館に展示されているカリアティード(女像柱)に着想を得たといわれる。
 2.「帆」
 原題“voiles”は、「帆」と「ヴェール」の2つの意味がある。風を切って進む舟の帆と、踊り子が身に着けたヴェールが風に揺れて変幻自在にたなびく様子とも感じられる。  全音階が敷き詰められている。
 3.「野を渡る風」
 風の細やかな描写。ヴェルレーヌの詩、『そはやるせなき夢心地』のエピグラフ(銘句)『野を渡る風は息をとめて』による。
 4.「音と香りは夕暮れの大気に漂う」
 ボードレールの詩『夕べの諧調』から霊感を得た。憂いに満ちた旋律の動きの絡みと、ニュアンスに富んだ和声の変化から醸し出される味わい深い作品。
 5.「アナカプリの丘」
 ナポリ湾のカプリ島にある町アナカプリ。真っ青な空と海、眩しく輝く太陽の光が、明るい色彩のパレットで描かれている。冒頭の教会の鐘の音をモチーフに、タランテラの快活な舞曲、ナポリ民謡も聞こえてくる。
 6.「雪の上の足跡」
 ドビュッシーは “雪に覆われた陰鬱な景色を音で表す” と語った。静かに一貫して続くリズムは重い足取りを表しているようで、悲痛な孤独感、深い絶望感が漂う。
 7.「西風の見たもの」
 表題はアンデルセン童話『楽園の庭』による。ヨーロッパにおける西風とは、広大な大西洋を渡りながら勢力を結集して激しく海岸に叩きつけ、船や家や自然などを荒々しく破壊し、人々を恐怖のどん底に突き落とす。
  8.「亜麻色の髪の乙女」
 ルコント・ド・リールの詩『スコットランド風シャンソン』にある同名の詩から着想を得たもの。スコットランド風5音音階が聴かれ、柔らかく美しい景色の中に佇む少女の情景が浮かぶよう。
 9.「とだえたセレナード」
 スペインが舞台。ひとりのギター弾きが奏で始めると、突然街の喧騒や祭りのざわめきに中断される。ムーア風のけだるいギターの旋律と、瞬時に異質の音楽にさえぎられる滑稽さ。中間部に、『管弦楽のための映像』より「イベリア」の1節が挿入されている。
 10.「沈める寺」
 ブルターニュ地方に伝わる伝説に基づいた深く幻想的な作品。イシスの町で悪魔にそそのかされた王の娘によって水門が開かれ、一夜で寺院が海底に沈められる。年月が過ぎ、寺院は徐々に海上に浮上し、やがて再び海の底に消えていった。波間からは教会の鐘の音や僧たちの聖歌が聴こえてくる。
 11.「パックの踊り」
 シェークスピアの『真夏の夜の夢』の妖精をユーモラスに描く。いたずら好きで気まぐれな妖精。時折、妖精の王オベロンが角笛を吹いて彼を戒める。軽妙にすばしこく飛び回った妖精は最後にはふっと消えてしまう。
 12.「ミンストレル」
 20世紀初頭にアメリカで流行していたボードヴィルの集団のこと。白人が顔を黒く塗って、バンジョーやドラムを演奏しながら、コミカルな道化芝居やアクロバットで観客を沸かせた。ドビュッシーは、1905年にイギリスで彼らのショーを見て、特別な思いを寄せていた。